並んだLAND
Executive producer: King Abdulaziz Center for World Culture (Ithra), Majed Z. Samman
Producer: Pigeon Productions, Mikołaj Błoński
Composer & Player: Hoshiko Yamane
– ログライン –
古典文学や落書きや現代写真などから様々に引用された、国や土地や風景に関する言葉とイメージが、不連続に未分類のまま提示される。
– シノプシス –
私はこれまでに無いほど強く国や境域を意識させられている
そうした日々のなか
私は0歳の娘と散歩したとき 彼女が初めて様々な風景を見て何を感じているのか考えた
私は自分がいて愛する人がいない世界を想像した
私は愛する人がいて自分がいない世界を想像した
そうした世界はいつか必ずやって来る
私は愛する人の風景になりたい。
予告編 『並んだLAND』(予告編)
変奏:寓話の楽譜
− コメント −
近年、ヒロシマをテーマとした三部作『変奏』を2016年から3年かけて制作し発表するプロジェクトを進めており、第一として昨年、旧日本銀行広島支店にて音によるメディア・インスタレーション作品を「序曲」として発表しました。展覧会「ヒロシマ・コード」で発表したアニメーション『黄色い雨』とグラフィカル・スコア『寓話の楽譜』は、第二の「交響曲」という位置づけです。『寓話の楽譜』は、星や犬のほかに核実験で生成される人工的鉱物のトリニタイトなどをモチーフとし、音を視覚的に描き出しています。
変奏:黄色い雨
− コメント −
近年、ヒロシマをテーマとした三部作『変奏』を2016年から3年かけて制作し発表するプロジェクトを進めており、第一として昨年、旧日本銀行広島支店にて音によるメディア・インスタレーション作品を「序曲」として発表しました。展覧会「ヒロシマ・コード」で発表したアニメーション『黄色い雨』とグラフィカル・スコア『寓話の楽譜』は、第二の「交響曲」という位置づけです。『黄色い雨』は被爆者の「黄色い雨や砂を見た」という視覚的経験とタルコフスキーの映画『惑星ソラリス』の影響を受けたものです。黄色い雨についてはチェルノブイリや福島でも同様の現象があったそうで、その後の視覚的な影響として白内障が確認されています。展覧会開場時、16mmフィルムによる黄色い映像はフラットな色面ですが、1日8時間上映している間徐々に雨のようにランダムな線が激しく目立つようになり、閉場時には殆ど白くなるように作られています。つまり黄色は、徐々に小雨、大雨となり、最後には白くぼやけた映像となるのです。まるで白内障で白くぼやけた視界のように。
変奏:<爆心地・8/6・犬の散歩>に基づく音楽のためのアニメーション
− コメント −
私は2015年被爆70年を迎えた広島で、8月6日に12名の広島市出身者と1匹の犬ともに、爆心地周辺(原爆ドーム、相生橋(通称T字橋)、被爆樹木など)を周るように散歩しました。犬の赴くままに歩きました。その際、犬が止まった場所の地面やその周辺にあるものを12名の参加者がフロッタージュ(擦り絵)を行い絵を集めました。アニメーション制作に犬や他者を参加させることで、私の意図を超えた偶然を集めることを目指しました。こうして創造の過程に幾層もの偶然を呼び込み、同時に広島市の凹凸から記憶とも言える「装飾」を採取しました。12名の参加者からそれぞれ一つずつ選ばれた絵は、私によってフィルムを介し12の音に変換されました。これに北の星空の天球の回転から導き出した数列を当てはめることで楽譜となる音列装飾を作り、音楽として奏でられるようにしました。
作品は、爆心地から380mの近距離で被爆を受けた歴史的建物、尚且つ音が反響するという特性をもつ旧日本銀行広島支店を展示会場とすることで、記憶でもあるその音は、鑑賞者に響き続けます。会場では、音のコラボレーションとして被爆ピアノとの即興演奏が行われました。
大切なことは、移動しつつ大地を眺める犬の散歩という行為と、星空を見上げるために立ち止まるという二つの日常的行為の中にある偶然と宇宙的な法則を、アニメーションの構造に取り入れていることです。
<星空と犬の散歩>に基づく音楽のためのアニメーション
写真提供:青森公立大学国際芸術センター青森
– コメント –
この作品は、国際芸術センター青森のレジデンスプログラムに参加したときに制作した、犬と星を要素にして偶然や他者の介入を取り入れた音のアニメーションです。まず音の元となる図像を得るために、犬を散歩に連れて行きました。そして犬が止まった場所の地面やその周辺にあるものを12名のワークショップ参加者と一緒にフロッタージュ(擦り絵)して「絵」を集めました。犬の散歩による場所の決定も、フロッタージュで絵を集めることも、アーティストの意図を超えた偶然を集めることを目的としています。こうして創造の過程に幾層もの偶然を呼び込み、同時に青森の町から記憶とも言える「装飾」を採取しました。この12名全ての参加者からそれぞれ1つずつ選ばれたフロッタージュの「装飾」は、フィルムを介して12の音に変換されています。
次にレジデンス期間中の皆既月食を機に天球の回転が撮影され、24時間で元の位置に戻るという北の星空の動きからアルゴリズムが導き出され、これらの12の音に時間の形が与えられました。こうして作られた図像は、16mm映写機にかけられることで信号として認識され、音となってスピーカーから流れています。いわば「音のアニメーション」といえます。
ここでは、犬をつれて町を歩く、地面を見つめ表面のでこぼこを紙に転写する、月や星を見上げて立ち止まるといったような何気ない日常の行為の集積が、いくつかの偶然と宇宙的な法則とフィルムやアニメーションの構造を媒介にすることで、音楽として奏でられています。
WHITE NO.2
– コメント –
白は、私の住むエストニアにとって馴染みのある雪の色そして川から出てくる泡の色。この泡が一体どこからやって来るのか、分かりません。私は、過去この国に汚染された牛乳が運ばれ、代わりに安全な牛乳が隣国へ運ばれて行ったという話を聞いたことがあります。白は美しい風景を連想させると同時に、不気味な色。エストニア人にとってこの色は歴史的にも現在の日常生活においても深い繋がりがあります。
白は、アニメーションを表現媒体としている私にとって常に対峙している紙の色。私は誰もが鞄に忍ばせている紙を友人や知人から直接受け取りました。これらを繋げる過程で、音楽に潜む数字の読み上げが紙と呼応し、映る速さとリズムを変化させるきっかけになっています。映像機器によって映し出された紙の白は、モノとしてのイメージと生成されていく光という有り様を合わせ持った色。
彼ら彼女らの白は彼ら彼女らの光。上映時この光が私の日常生活におけるあらゆる光に干渉され、紙の陰影や痕跡に内包される微かな物語を認識できなくとも、それが彼ら彼女らの物語と私との距離感なのです。ましてや映すことによって浮き彫りになったスクリーンの汚れさえも。
WHITE
– コメント –
白は、私の住むエストニアにとって馴染みのある雪の色そして川から出てくる泡の色。この泡が一体どこからやって来るのか、分かりません。私は、過去この国に汚染された牛乳が運ばれ、代わりに安全な牛乳が隣国へ運ばれて行ったという話を聞いたことがあります。白は美しい風景を連想させると同時に、不気味な色。エストニア人にとってこの色は歴史的にも現在の日常生活においても深い繋がりがあります。
白は、アニメーションを表現媒体としている私にとって常に対峙している紙の色。私は誰もが鞄に忍ばせている紙を友人や知人から直接受け取りました。これらを繋げる過程で、音楽に潜む数字の読み上げが紙と呼応し、映る速さとリズムを変化させるきっかけになっています。映像機器によって映し出された紙の白は、モノとしてのイメージと生成されていく光という有り様を合わせ持った色。
彼ら彼女らの白は彼ら彼女らの光。上映時この光が私の日常生活におけるあらゆる光に干渉され、紙の陰影や痕跡に内包される微かな物語を認識できなくとも、それが彼ら彼女らの物語と私との距離感なのです。ましてや映すことによって浮き彫りになったスクリーンの汚れさえも。
Imaginary Erratum Animation
– はじめに –
私はアニメーションのためのアートプロジェクト『Imaginary Erratum Animation』を始めました。このプロジェクトは、私たちが生きている現実世界のあらゆる場所で世界中の人々がリアルタイムに1枚の絵を書き、それらを掻き集めてひとつのアニメーションを作ることが目的です。アニメーションの本質が動きによって絵に生命を与えるものだとすれば、その動きが生まれる原理とは音楽でいうメロディが生まれる原理と似ているでしょう。つまりアニメーションの根源は2つの似通ったイメージから成ると言えます。私はここに注目することで新しい形の創造的アニメーションを見つけることが出来るのではないかと考えています。このプロジェクトは絵と詩を使ったルールの中で、他者の介入による偶然性と共通の場という要素を取り入れつつ、アニメーションの根源に立ち返り新たなアニメーションのあり方を提示していくための実験です。このプロジェクトはこのような動機から生まれたものです。
《方法論》・・・私は以下の方法論のもとプロジェクトを進めています。
- Imaginary Erratum Animation(以下IEA)のいくつかのルールはシステムとして「描く行為」に用いられる。
- IEAはアニメーションの根源的要素且つ最小単位である「類似した二つのイメージ」と「動き」に着目したアプローチである。
- IEAはALIMOが始まりのイメージと終わりのイメージを描く。これはアニメーションにおいて原画のことである。
- IEAは他者の介入を「動き」の原動力とする。これはアニメーションにおいて動画又は中割り(注1)のことである。
- IEAは他者に絵を描くきっかけとして、二つのイメージと詩を用いる。
- 他者は二つのイメージを眺め、詩を読み、それらを繋げるという意識のもと、絵を描く。
- 他者は参加方法に従ってイメージを描く。このとき偶然性と即興、恣意性は大いに歓迎される。それが描くという行為の本質だからである。
- 他者はあらかじめ設定された描画道具、イメージのサイズ、制作時間のなかで絵を描く。
- 他者が描いた絵を並べる手順は、メールにて届けられた順とする。ワークショップで使用する紙には予め番号が付いている。これにより「動き」はALIMOによる恣意性をなくし 偶然性による動きを生み出す。
注1/中割り・・・一つの動きを作るとき、最初の絵と最後の絵が一枚ずつあるとすると、 その中間部分の動作を連続した絵のこと、またはその作業のこと。
開かれた遊び、忘れる眼
音楽:羽深由理
音響効果:関根鈴花
– シノプシス –
作品はシュルレアリストの遊び「甘美な死骸」を方法論の核としている。絵は描かれ、繰り返される。何日か経てば自ら描いた絵も忘れてしまう。そして日々の「忘れたイメージを繋ぐ」という行為は、偶然の符合と接近を経て、あらゆる「あいだ」を生じさせ、いつしかそれらはリズムをもって光の射す窓へと開かれた遊びとなる。
– コメント –
《忘れたイメージを繋ぐ》
M・エルンストの言葉を僕なりに置き換えて作品について述べると「本来画家が所有している絵画の継起性をアニメーションによって翻訳し、時間の震えを視覚化し観客に体験させているだけのこと」ということになります。つまり僕はアニメーションを“Animation as a Painting”として扱い、感覚としてはイメージのアーカイブ、描くという行為のアーカイブなのです。それらは一つの支持体という共通の場で行なわれます。自ら描いた絵を忘れるという感覚。そのことを繰り返す日々。そこへ「甘美な死骸」という遊びを日記のように用いて忘れたイメージを繋いでいきます。詩人ルヴェルディの言う「イメージは多少とも互いにへだたった二つの現実を近寄せることから生まれる」ことを契機として、「美はぎくしゃくした動きの連続から成るものだ。美、動的でもなければ静的でもないもの。人間の心、地震計のように美しいもの。(『ナジャ』アンドレ・ブルトン作. 巌谷國士訳. 岩波文庫より一部引用)」が継起します。そこには動きよりもさらにアニメーションの根源的本質ともいえる「イメージとオブジェのやりとり」があるのです。暗闇のなか何かしらの希望を象徴するかのような一つの光によって映し出されるアニメーション、しかし物理的にはただの光でしかないその薄っぺらなイメージ群の中に、僕はラディカルな愛を込めようとしているのです。
人の島
音楽:葛城 梢
– シノプシス –
昔々どこにでもありそうな一つの島に、ブーツを履いたスーツ姿の男が一人いた。
男は疲れ果てた表情で、目の前の美しい海を見ていた。
男は何を思い、海を見ているのか。
数日前まで、男はひたすら海と森を往復していた。
一ヶ月前・・・。半年前・・・。
物語はこの男の人生を徐々にさかのぼってゆく。
– 手法 –
「アニメーション・タブロー」という独自の方法論で絵画とアニメーションを融合した作品。油彩により描いたり消したりしながら展開させ、初めから最後までたった一枚のキャンバスに描いています。時間がさかのぼっていく物語構成のため、制作はエピローグからプロローグへ向かって描き進めることにより、冒頭シーンには過去の記憶や歴史が集積しているかのように、描いた痕跡が映し出される。
notice Bhim
– 作品解説 –
バーバーポールをモチーフにインドの偶像崇拝とレジメンタルストライプの反復運動を描いたアニメーション・タブロー。
インドに滞在していた時、髪型でトラウマになる出来事があり、理髪店を探したがまったくバーバーポールが見当たらなかったのです。町を歩き、代わりによく目にしたのがアンベードカル(別名:バーバー・サーハブ)の肖像でした。探し求めた理髪店の「バーバー」とどこにでもあるアンベードカルの「バーバー」が私の中で変な具合に交じり合ってしまったのです。「これはどういうことなんだ」って。インドでは彼が亡くなった後も称えるかのように彫像が建てられ続けているそうです。その結果インドでは寺院や仏像ではなく、彼の彫像が圧倒的に多いという状態になったのです。そこには支持者たちの偶像崇拝が見え隠れし、自分たちの意志の表れが異なった方向へ向かい、まさに必死であるがゆえに滑稽な風景を生み出している原因になっているような気がして、これらのことに何か違和感や憤りを感じるのです。
リーゾー
– シノプシス –
そこにはただ宗教上の違いしかないのに殺しあった三人がいた。ある日、戦争によってモスクやイコンを失った三人の信徒たちは、誰がどの宗教か分からなくなり、争う理由がなくなってしまう。そんなとき、町の中央に一つの像が建った。どの民族にも関連していない像を建てることで、平和を取り戻したと思われた町だったが・・・。
– コメント –
ボスニア紛争をモチーフにしたこの作品のタイトルは、金色のブルース・リー像のことです。像は戦争後サラエボの中心街に建てられたそうです。理由は、どの宗教にも属さず「忠実、友情、正義」を民衆に伝えるためであり像の作者はこう言っています。「リーは真の世界ヒーローでありボスニアのすべての人種のヒーローです。」戦争は外から見ると本当にバカバカしく滑稽なのですが、当事者はすごく必死であるため、何でもいいから縋りたくなる状況が私にはキノコ雲なんかより居た堪れないのです。ここに映し出す光景は、紛争の当事者ではない私、無宗教の私が描く事実です。信者の区別もつかないし、どの国がやられているかも分からず、かといってそこに見えるのは私たちがテレビでよく目にする激しい砲撃シーンでもありません。ここに見えるのは単なる戦争の悲惨さと滑稽さだけです。
Chandelier
– シノプシス –
僕にとってシャンデリアは頭の上でキラキラと輝いて、まるで幸せのエンブレムのようにいつも金色のオーラを放っている。
A WHITE HOUSE IS FAR
– シノプシス –
私はとてつもなくリアルな映像を目にすることがあった。それは東京の、とある平和な町にあるアパートの一室に置かれたモニターからである。人が死んでいく様を初めて見た。人が殺される様を初めて見た。それはたしかにリアルタイムではないし、遠く離れた場所の出来事だけれども、そして小さな14インチの間接的な光景だけれども、その時の私にとっては充分すぎるほどの強烈なインパクトだった。私は簡単に目を逸らすことはできただろうし、ボタンひとつでその光景を消し去ることもできただろうに、何がそうさせなかったのか自分でも分からないがただただ見つめていた。動けなかった。
今日の世界、日本でさえ、毎日のように殺人、監禁、拉致などのニュースは流れ、夕食を食べながらそれらを見ている自分もいた。TVからは犯行の場所や殺人犯が映し出され、遺族や友人、犯人の幼い頃の文集まで出てきて、最後には再現VTRまで流しだす。私達日本人はそれに慣れてしまっていて、ニュース番組でさえ、あの手この手で視聴率に躍起になって映像を流す。私達はいつの間にか、より具体的な内容の、より幅の広い内容の、よりリアルなものを求め、チャンネルを変えてゆく。私は今さらポストコロニアリズムなんて唱えているわけではなく、あんなものを見ておきながら何もせず、今日もニュース番組を見ようなんてできなかっただけだ。
園
– シノプシス –
風景は常に瞬間であり、瞬きするよりも早く変貌していく。風景は私の目の前をスライドしていき距離感を消失し、地平線の曖昧さを浮き彫りにする。こうして大地が大きな庭となり、そこで私は記憶の底に沈んでしまったものたちを拾い集め、映し出す。
地平線から始まるある風景は、ありふれた風景となり、大地が大きな庭となる。そしていつしかその風景は一つのある記憶の底を映し出す風景へと変貌する。タイトルの「園」には墓や庭という意味があり、そういったものは私にとって何でもない風景からフッと記憶の底を映し出されたように感じるときがある。
風景というものはつねにある瞬間、瞬間であり、たいして変わらないように見えても同じ風景は瞬きするよりも早く消えてゆく。日常、車や電車に乗っている時に眺める、移り変わってゆく風景は距離感をかなり失っている。また、地平線というものの曖昧さ。そして自らが見た夢であったり、空想の光景であればときに目の前いっぱいに広がる青が海だったのか、それとも空だったのか? ただでさえ曖昧な事象がより曖昧になってゆき、例えば昨日の夢の話をするように、いつしかそれらの瞬間は断片性を持ち非完結性といういわゆるイメージでしか成り得ないことに気づく。そして、さまざまな光景が私自身をスライドしてゆくのだ。その時私は自分が見ている曖昧なものごとによって現実すらイメージでしか成り得ないのではないかと思ってしまうし、そう思った頃にはすでに新たな世界に立っているのだ。立っているその場所からイメージは一度、記憶の底に沈んでしまうのだけれど、そのものたちを私は拾い集め始める。それが私にとっていつも「物語」の始まりとなる。